電気設計の道

人生を楽しむコツは好きな道を歩くこと

 
子供の頃から好きだった電気工作がもとで、大学で電気工学を学び、電気の会社に入り、電気設計一筋の道を歩いてきました。
好きな道を歩くことは人生を楽しむコツです
子供の頃
高校の頃
大学の頃
会社に入って
仕事を辞めて

子供の頃

私の生まれたところは農家です。
かなり裕福な生活をしていたようですが、戦後の農地改革で土地を取られてしまい、わずかに残った田畑で親たちは苦労したようです。
まだそこには電気が来ていませんでしたので、ランプ生活でした。
ランプのホヤを掃除するのが私の仕事位のもので、ほとんど農作業の手伝いはしませんでした。

まだ小学校に入る前の事ですが、電柱が立てられ、電工さんが電線を張っていました。
一日中それを見ていました。
これが私の電気とのかかわりの最初となりました。
はじめて電灯がともった時は子供ながらにも嬉しかったです。

家の中で、2階から下の方までタコ糸を張り巡らし、電工さんの真似をしていたのですが、踏み台から落ちて囲炉裏に突っ込んでしまいました。
囲炉裏には大きな鍋が掛けてあり、麦が煮てあったのです。
ここに突っ込んだのですから大変です。
大やけどをしてしまいました。
父が私を背負って医者に連れて行ってくれた時の事は鮮明に覚えています。
もう70年以上も前の事ですがしっかり覚えています。

私は色々物を作ることが好きでした。
工作が好きなのです。
特に電気関係の工作が大変好きでした。
親は、私のその特性を見抜いていたらしく、「子供の科学」という雑誌を毎月買ってくれました。
それには電気の工作も載っていて面白かったです。

小学校に入ってから、模型の電気機関車を作りました。
キットが売ってあるわけではありませんので、歯車やモーターなど買い集め、やすりで削ったりして作り上げだのです。
部屋の中にレールを敷き、走らせていましたら、母がそれを見て大変喜びました。
機関車の走るのを喜んだのではありません。
私が作り上げたことを喜んでくれたのです。

鉱石ラジオを作りました。
大きなアンテナを立てました。
かすかにしか聞こえませんが、音が聞こえて嬉しかったです。叔父さんに無理やり聞かせた覚えがあります。

扇風機を作ったり、水力発電機を作ったりもしました。
変圧器(トランス)を夏休みの工作として作ったところ、学校から市の展示会に出され、優秀だということで県大会にまで出されました。
新聞にも載りました。

乾電池を作った時は、カーボンが必要でしたので、鉛筆の芯を削って粉を作りました。
誰かは分かりませんが、私の筆箱の中にいつの間にか短くなった鉛筆を入れてくれた人がいました。
ひょっとしたらあの女の子かな、とも思いましたが、有難く頂戴しました。

小学校の頃は算数と言ったり、理科と言っていましたが、高校の頃になりますと数学とか物理と言われるようになりましたけれども、私はその科目が大好きでした。
国語とか社会は大嫌いでした。
それでも何とか高校に入ることが出来ました。

高校の頃

高校は進学コースに入りました。
私は次男ですから家を出て何かの職に就かなければなりませんでしたので、大学を目指したのです。
今でこそ大学など当たり前ですが、私の小学校の同級生から大学に行ったのは私一人です。
中学の同級生でも数えるほどしかいませんでした。
そんな中で親が言うでもなく、私がせがんだのでもなく、高校に行って大学に行く道に乗ってしまっていました。

さて、その高校でいよいよ大学受験の準備の頃になり、この先の方向を決めるのには苦労しました。

私は物理と数学しかできないのです。
この二つはだれにも負けない自信がありましたが、そのほかの科目は単位を取るのがやっとという状態でした。

数学の先生になる道か、電気の会社に入って設計する道に進むかすごく考えました。
そのどちらかしかないのですが、自分の一生を決める分かれ道なのです。

数学の先生は公務員ですから安定した生活が保障されています。
電気の会社に入れば、会社が倒産する可能性もあり、保証された道ではありません。
さんざん悩んだ末、「自分の好きな道」に行くことに決めました。電気設計の道を選んだのです。

そうすれば電気の大学を目指さなくてはなりませんが、国立はもう諦めました。
国立は試験科目が多義にわたり、私には適さないからです。
私立はその点ある程度試験科目の少ない所もあります。
ただ、国立は費用が安いですが、私立は多額のお金がかかります。
親に意見を求めましたら、その程度は出せるからどこでも好きなところへ行けと言います。

蛍雪時代と言う月刊誌がありました。
これは受験専門の雑誌で、本当に広く深く情報が載っていました。
そのなかに、私立で給費生を募集している大学のあることが分かりました。

給費生と言うのは、大学からお金を支給され、そのお金で色々の費用を賄うことが出来る仕組みです。
特待生と言うのをよく聞かれると思いますが、特待生は授業料が免除になる程度ですが、給費生は入学金から寄付金の分まで見込まれているため、実質無料になるのです。
なぜ給費生を募集すかと言いますと、卒業後、うちの大学にはこのような優秀な学生がいるのだと宣伝することが狙いなのです。
ですから、ものすごくハイレベルの試験になります。

ところがさらに調べてみますと、自分の好きな科目二つを受験すればよいことが分かりました。
電気工学科もあります。ただし電気工学科では給費生は1名だけしか入れません。

ちょっと考えましたが、私は数学と物理ならだれにも負けない自信がありましたので、超難関でも挑戦することに決めました。

それからの勉強は我ながらすさまじいものでした。
家の中では勉強できず、土蔵の中に閉じこもって勉強しました。
数学と物理だけです。
参考書は何べんも何べんも読み返しますから、擦り切れるほどです。
どこに何が書いてあるのか見なくてもわかるほどになりました。

そうしていよいよ大学の入学試験を受けました。
すると、何と、合格できたのです。
電気工学科の一名だけの試験に合格したのです。給費生です。
大学からお金を貰えますから無料の大学生になれたのです。

大学の頃

大学に入りましても、物理と数学だけは得意でした。
電気と物理は近いですから電気工学は好きでした。
ただ、英語は大の苦手で、ドイツ語も良くなかったです。

入学試験は得意の二科目だけでよかったのですが、給費生を維持していくためには総合点でクラスの上位にいる必要がありましたのでかなり苦労しました。
あるとき、前期試験の後で担任の先生から注意がありました。
 今回、君としたことが成績良くないね。このままだと資格停止になるよ。後期は頑張りな。と。
実は原因があるのです。
前期試験の最中に遊んでしまっていたのです。
後期はしっかり頑張りましたので資格は維持できました。

3年生になった時、教授の助手をすることになりました。
電気の実験は先生が手が回らないほど忙しいため、助手を命じられたのです。
大学の名簿には末端ですが、助手として記されていました。
助手の給料を大学からもらえたのです。
一般の学生より先に勉強し、実験の方法を知っておいて実験の授業の時には皆さんを指導したのです。
4年生の方にも指導しました。
皆さんは、私の事を大学院生だと思っておられたようです。

そのほかにも育英会の奨学金ももらっていましたし、親からは生活費が送られてきます。
家庭教師をしたりもしていましたので、本当に裕福でした。
ただ、彼女とのデートに相当つぎ込みましたので、裕福な割にはお金は残らなかったです。
タバコもやっていましたが、一番安いのしか買えないときもあったほどです。

大学は電気工学が専攻ですが、電気設計の授業はありませんでした。
全て電気についての基礎ばかりです。
電気設計として唯一あったのは、送電線用の鉄塔を設計することがありました。
自重や風の作用、電線の重さ、もし片方の電線が切れても倒れないなどの計算を行い、鉄塔を設計するのです。
基礎知識は大変重要だということは社会に出てから良く分かりました。
また、電気設計のためには数学も非常に大切です。単なる四則演算ではなく、対数や微分積分などが出来ないと電気の設計ができません。

でも、大学は楽しかったですね。
勉強もしましたが、遊びもしました。彼女もいましたし。
人生の中で一番楽しかった時期かもしれません。

卒業の時に、担任の先生からある電気の会社に行くよう勧められました。
先生が関係されている会社に、私を推薦してくださったのです。
会社見学し、私も気に入りましたので入社試験なしで決定してしまいました。

会社に入って

会社は電気製品の製造販売をする会社です。
子供の頃から好きだった電気工作の最先端なのです。
こういうところで新製品の開発設計をすることが私の夢だったのですが、それが実現することになりました。

会社は色々の組織で成り立っています。
普通は入社してもどこに配属されるかは運のようなものです。
しかし大学の先生の紹介だったことが幸いしたのだと思いますが、設計部門に配属されたのです。

しかも、いきなり新製品の開発を命じられたのです。
特許の申請までしましたが、結局未完成となり、この開発は終了しましたが、通常の電気設計として主力製品の開発設計をすることになりました。
新入社員の頃は次々と設計することで毎日が楽しくて仕方ないほどでした。

しかしだんだん責任あるポストに就くに従い、社会の過酷さが身に染みて分かってきました。
電気設計とはいえ、ただ思うように設計すればよいのではないからです。
当然性能を発揮する製品にしなければなりませんが、問題はコストです。
他社より高くては売れませんから、もし高ければその設計は全く価値がないわけです。
もっと苦しんだのは納期です。
いついつまでにと期間を決められているのですが、誰も作ったことのない新製品がそんなに簡単にできるものではありません。

夜の夜中まで毎日毎日残業です。
大抵夜中の2時か3時になります。
翌朝は定時に出社です。
家庭は家内に任せきりですが、本当によくやってくれました。この家内の支えがなければ私は仕事することが出来なかったでしょう。

電気設計にあこがれ、実際にそれが出来るようになったのですが、現実の社会は子供の頃の工作と違い、過酷なものだとよく分かりました。
しかし目標としていた新製品が完成し、工場で量産され、お客様に使っていただけるようになると本当に嬉しさがこみ上げてきます。
残業残業で頑張ってきた苦労は喜びに変わります。
もちろん私一人で成し遂げたわけではありません。上司の指導や部下たちの懸命の努力の結晶なのです。
家内の支えの結果なのです。
感謝感謝です。

入社した頃の私の夢は、定年退職する時、部長にまで出世していたいという夢でした。
その夢は現実となり、さらにおまけまで付きました。
部長になることが実現した後、役員として経営陣に加わることになったのです。
取締役にまでなれたのです。

取締役を退任してからは顧問として若い人の指導をしてきました。
その顧問も取締役待遇となりました。
子供の頃憧れた電気設計の道を一筋に歩きとおしました。
好きな道を歩きとおしたのです。

自分なりに方向を決め、そのための努力もして軌道に乗ることが出来たのです。
そうして電気設計を実際に行うようになると、本当に多くの人の協力が必要となり、助けてもらわなくてはならないことがしみじみ分かりました。
皆さんの助けのおかげで私は電気設計をすることが出来たのです。
皆さんに感謝しています。

仕事を辞めて

入社以来、づっと電気設計に携わり、最後は顧問として若い人の指導をしてきました。
同じ会社の同じ部門で、づっと続けて仕事をしてきました。

しかし75歳と言う後期高齢者ともなりますと、顧問も務まらなくなってきました。
入社してから53年という月日が経ってしまったのです。
電気設計と言えども時代が変わってきました。
もう指導するどころかこちらが習わなくてはならないような技術ばかりになって来たのです。
もちろん、基礎と言うことは変わりませんが、何を作り出すかという点においては全く変わってきました。

そのため長年勤めてきた会社を辞することにしました。
皆が花束で送ってくれました。

もう数年前になりますが、前立腺癌にかかり、治療してもらった結果順調ですし、とりたてて問題となるような病気もなく、いたって元気で過ごしています。

会社は辞めましたが、それではこの先何をすべきか、いや、何ができるかです。
子供が同居していてくれますし、ある程度の年金も貰えますので生活には困りません。
遊んでいても家内と二人暮らして行けます。

私がこの先出来ることは、少しの社会奉仕だろうと思います。
祭りと、神社です。

この町内には祭りが無かったので、町内祭りを立ち上げるという人のグループに加えて頂き、町内で42年間関係しています。
子供たちのために、大人になって、「こんな祭りをしてきた」と思い出してもらえるように、笛や太鼓、獅子舞などを教えるのです。
祭りが近づきますと、私も指導者の一人として毎晩子供たちを集めて練習するのです。
祭りの当日は町内の皆さんの前で子供が発表の演舞をしてくれます。
町内の人たちも喜んでくださいますが、練習してきた子供たちは汗だくになりながら、喜んで発表しています。

もう一つは神社です。
この地域の氏子総代として神社に行って仕事をします。
氏子総代と言うのは、昔は地主とか豪商とか、地域の有力者が務められていましたが、今はそういう方ではなく、一般の方々の中から選ばれるようになっています。
氏子総代の仕事は本来は宮司の補佐をすることなのですが、実際にはしめ縄作りやトイレ掃除まで多義にわたる労力提供になっています。
そのため氏子総代のなり手がなかなか見つからないというのが現状なのです。

3年が任期なのですが、再選は妨げられず、私は3期めに入りました。8年目になるわけです。
この神社では最年長者になってしまいました。
3年、4年と言う方がほとんどですので、何をどうするのか神社のしきたりの指導は今でも行わなければなりません。

身体が言うことを聞いてくれるなら、あと1年か2年続けるつもりです。
先日、区長にお話ししてきたのですが、私の後がまとして、この地区の氏子総代を選出するよう依頼してきました。
おいそれと見つかるものではありませんので、選出作業に入るよう依頼したわけです。

全く話は違いますが、趣味に生きることも実行しています。
写真を撮ってコンテストに出すことを10年以上続けてきましたが、だんだん実力が落ちてきているのが自分でもわかり、昨年のコンテストを最後とすることにしました。
づっと入選してきましたが、今度はその自信が無いからです。
落選して、がっかりしてから辞めるよりもこの方が良いと思ったからです。

趣味はまだいくつかあります。
ギター、尺八、ハーモニカなど楽器演奏です。
これらは子供の頃から続けていますので、ある程度の音楽としての表情も表現できます。
楽しいです。

最近はギターの楽譜を買ってくるのではなく、編曲を楽しんでいます。
楽譜を書くのです。良い響きのするように何回でも書き換えて演奏してみるわけです。
荒城の月は4拍子ですが、これを3拍子に編曲し、ギター演奏したのをユーチューブに出しています。
現在は「月見草の花」を澄んだ音になるように編曲しているところです。

庭作りも趣味ですが、これは体力的に少し負担になってきました。
昨年、長年自分で手入れしてきた大事な松の木を切ってしまいました。
鋸を入れる時は、松の木に向かって、感謝し、ごめんねと合掌しました。
でも温室もありますし、まだたくさんの植物がありますので、なかなか手がかかります。

電気設計の道としての仕事はやめましたが、社会奉仕と趣味の生活をこの先も行っていこうと思っています。



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