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見返りを求めない愛本当に愛するならば見返りを求めない愛でなくてはなりません。。相手が答えようが答えまいがその相手を愛することが本当の愛なのです。相手は恋人だけには限りません。夫婦愛は見返りを求めない本当の愛と言えるでしょう。 本当に愛すると言うこと小さな愛も大きな愛も本質は同じだと思います。自分が車を運転してるとき、傘を持たない人が濡れながら歩いておられたらどうします? 近くに寄って、乗って行かれませんかと声をかけるかもしれませんね。 駅のホームで、近くの人がよろけて落ちそうになったら、あっ危ないですよ、と言って手を差し伸べませんか。 小さな愛ですが、見返りなど求めているわけではありません。期待するわけでもありません。 困っている人に手を差し伸べると言う愛なのです。 片思いと言うのはどうでしょうか。 ほとんどの場合、本当の愛とは言えないことが多いです。 あの人が好きだ、までは良いとして、「あの人も私を好きになってくれたらいいな」と言う見返りを期待しているからです。 その見返りを求めないで、ただ本当にその人を好きだなぁ、と思う気持ちは本当の愛と言えるでしょうが、たいていの場合、相手から好かれてもらいたいと言う欲望が出てくるものです。 告白もせず、ただ好きだなあと思えるのならば、片思いであっても本当の愛を持っていると言うことですが、なかな難しいことです。 動物や植物を愛する相手が人ではなく、動物や植物の場合もありますし、製品や商品を愛する場合もあります。こういう場合はほとんどの場合、本当の愛と言えるでしょう。 そのものを好きになっているのです。見返りを求めているわけではありません。ただそのものが好きなのです。 絵や写真を好きになるかもしれません。値段の上がるのを待っているのなら、好きになっているわけではありません。 可愛いぬいぐるみを手放せなくなっている人もいますし、棚の上に好きなものを飾っている人もいます。 額に入れて壁に飾っている人も居られるでしょう。 皆、そのものを愛していられるのです。 何らの見返りも期待せず、自分がそのものを愛しているだけです。 これが本当の愛です。 隣人を愛する私はキリスト教徒でもありませんし、学者でもありませんので、正しいかどうかは分かりませんが知っている範囲で述べてみます。キリストの神は民を愛しています。 皆が幸せになってくれることを願っておられるのです。 神が民に見返りを求められることは決してありません。見返りを考えること無しに、民を愛しておられるのです。 そうして、神は仰せられます。 隣人を愛せよと。 この隣人と言うのは、自分の住んでいるところのお隣さんと言う意味ではありません。 全ての人を意味しています。 もちろんお隣さんもそうですが、見知らぬ人であっても、戦争の時の敵であってもすべての人を愛するべきだと説かれています。 ただ、キリストの言われる「愛」は、親子の愛とか、男女関係の愛とかそういう愛以上の奥深い意味を持つと言われています。 仏教でいわれる「慈悲」のような意味だと思いますが、このキリストの「愛」は奥深いものであり、一生をかけて勉強しなくてはならないとまでも言われています。 しかしいずれにしても、この「愛」は、見返りを求めるものでないことだけは確かです。 見返りを期待しない見返りを期待しない愛を持つべきだとの説の中でよく言われることがあります。見返りを求めないで愛すれば、その愛は相手に自然に通じ、その相手も自分を好きになってくれますよ。ですから、見返りを期待しないで愛することが大切なのですと言われています。 しかし、よく考えてみてください。 何かおかしなことを言われていませんか? 相手に好かれることを期待して、「見返りを期待しないで愛せよ」、と言われているのです。 結局見返りを期待しているわけです。 その一つの手段として、今は、露骨に見返りを期待しないふりをしておきなさい、と言うことになってしまいます。 内心は見返りを期待しながら、見返りを求めていませんと言っているのです。 本当の愛と言うのは、そのような「見返りと言うことを意識しない所」に存在しているのです。 結果を評価しない自分がこれだけ愛しているのに、あの人は愛してくれないと言って、自分の思いの結果を見極めようとするのでは本当の愛を持っていたとは言えません。なにも男女関係や恋人同士の話ではありません。 「愛」と言う字を使うために少し誤解を招くところがあると思われますが、近所付き合いにおいて、仲良く話をすると言うことも「愛」の中に含めて考えてください。 色々なサークルや友達同士の集まりなど、人々と交流する場もあるでしょうが、そのような時、いずれの場合においても敵対心を持たないで接することが出来れば、愛をもって接することが出来ていると言っても良いのです。 これらの会話の中で、一々結果を期待しますか? 一年の間には何十人も何百人もの人と会話されるでしょうが、会話の中で一々見返りを求めておられることはないと思います。 それでよいのです。 その積み重ねが結果として出てくるでしょうが、気にしないことが大切です。 同じように接していても、中には悪く言われる方も居られるかもしれませんが、気にしないことです。 自分なりに精いっぱい、仲良くやって行こうとの精神で接していたのならそれで十分ではありませんか。 見返りを求めない愛が本当の愛一般論や論説を述べるつもりはありません。私の実際の経験から、本当の愛はこうしてはぐくまれて行くものだとのお話をしてみたいのです。 その中心は、見返りを一切求めることはないのに、互いの愛は本当の愛に成長していったと言う話しです。 大学受験の頃、私は土蔵に閉じこもって勉強していました。 静かですし、暑さ寒さもなくて過ごしやすい所です。 毎日毎日勉強に打ち込んでいましたが、この頃、蛍雪時代と言う受験のための月刊誌を読んでいました。 色々の情報が載っていて大変参考になりました。 この蛍雪時代のあるページに、一休みしましょう、と言うことで、文通希望の募集がありました。 これから文通を始めませんか、私はこれこれの住所でこういう名前です、と記されているわけです。 昔の事ですからスマホもブログもない時代です。手紙だけが唯一の交流方法でした。 私は字がとても下手で、自分でも読みづらいほどですが、試しに応募してみました。 おそらく駄目だろうと思っていたのですが、女性の方から返事が来たのです。 OKの返事です。 勉強の合間をみて、時々手紙を交換しました。どこの大学を目指しているとか、趣味の話などです。 でもだんだん回数が重なり、互いの状況が分かってくるに従い、写真の交換をしようではないかと言うことになってきました。 文通の領域から少し外れてきたのです。 二人とも目指す大学に合格し、やれやれと言うことになりましたが、文通はまだ続きました。 すると互いに会ってみたくなってきたのです。 デートしてみたくなってきたのです。 ところが二人の住んでいるところはずいぶん離れており、デートはデートでも、一泊二日を要するのです。 私は男ですから問題はありませんが、相手の方は女性です。 躊躇されたとは思いますが、ぜひ会ってみようと言うことになりました。 私は自分に誓いました。 迷惑をかけてはいけないから、絶対に手は出さないと。 無事に朝を迎えることが出来ました。 滑りやすい岩場の道でしたので、手を取ってやりました。 柔らかく温かい手でした。 初めて彼女の手を握ったのです。 その後も交際が続きました。 お互いに見返りを求めない愛が育って行ったのです。まるで小さな2本の木が並んですくすくと育つように、二人の愛は深くなっていきました。 これが本当の愛と言うものです。どちらも「愛しています」とは一言も言っていませんが、互いの心はわかります。 人生とは良い時ばかりではありません。 突然彼女が亡くなってしまったのです。心臓の病気でしたがいわゆる突然死です。 私の人生の中で一番悲しく、苦しく、悔しい時でした。これほど残念で無念な出来事はほかにはありません。 しばらくの間はただ茫然としていました。 夫婦愛こそ見返りを求めない愛彼女が亡くなった後、親の勧めで見合い結婚をしました。最初の人は意気が合わず一度デートしてみただけでした。 二人目の人はある程度まで交際はしてみましたが、親戚周りからの反対意見でお流れになってしまいました。 三人目の人が現在の妻です。 どういうわけか理由などありませんが、今度は意気が合いました。 好きになって来たとか、愛し合ってきたと言うほどの事はありませんが、互いに嫌いではないと言う状態でした。 半年もたたないうちに結納が交わされ、結婚式にと進んでいきました。 小さいながらも一軒家を建ててもらい、そこに二人で住むことになったのです。 親たちが会社の近くに土地を買い、そこから会社に通えるようにと家を建ててくれたのです。 あっという間に結婚生活と言うことになりました。 するとどうでしょう、だんだん愛し合うようになってきたのです。 夫婦の愛が育ってきたのです。 この夫婦愛は「見返りを求めない愛」です。 私は妻を愛し、妻は私を愛してくれます。 この夫婦愛こそが見返りを求めることのない本当の愛です。 互いに愛するのに、何かの見返りを期待して愛するのではありません。 ただ、夫は妻をひたすら愛し、妻は夫をひたすら愛するのです。愛することに何の魂胆もありません。 愛しいから愛するのです。 やがて子供が生まれれば、子供をも愛します。 子供を愛するのに、なんの見返りも期待しません。自分たちの子供がかわいいのです。可愛くて仕方ありません。 見返りを求めない愛です。 孫が生まれればこれはまた格別に可愛いです。 孫を可愛がるのに見返りを期待することはありません。純粋な愛です。 見返りを求めない愛と言うのは、この夫婦愛や子供や孫を愛するような、純粋な愛の事なのです。 子供も孫も十分に感じ取ってくれるのです。 何も言わなくても、愛されていることを感じ取ってくれるのです。甘えてくれるのです。 結婚生活も金婚式を済ませることになりました。 市長からお祝いを受けました。 長い結婚生活の間には、夫婦げんかも何度もありました。 でも、根底に互いを愛する気持ちがあれば、すぐに仲直りできます。 大抵は翌日の朝には何事もなかったようになります。一番長かった時でも2〜3日でしたでしょうか。 夫婦愛という、純粋な愛、見返りを求めない愛が根底にあるからです。 妻は、私の昔の彼女の事を知っています。 そして、時々ちょっとヤキモチを焼いてくれますので、とても可愛いです。 |