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父母の愛情父や母の愛情を喜寿を迎えたこの歳になってしみじみ思い至りました。自分は我が子にどれだけ愛情を注ぐことが出来たのか、全く恥ずかしいです。私の親には今になって申し訳ありませんが感謝し直しています。 母の愛子供の頃を思い出してみますと、私は本当に可愛がられて育てられていたのです。兄弟の一番上は姉で、次が兄ですが、その兄とは10歳離れているのです。 私から見れば、兄はもう大人でしたから、兄弟喧嘩をしたことはありません。年が離れすぎていて、喧嘩にはならなかったのです。 後で聞いた話ですが、私はなかなか乳離れせず、いつまでもしがみついていたらしいです。 農家ですから家族全員田畑で仕事をするのですが、私は農作業の手伝いを強いられたことはありません。 せいぜいで、田植えの時、苗を田の中に放り込んだくらいの事です。 一番古い母の思い出は、あぜ道に大豆の植え付け作業をしている時の姿です。 田のあぜ道に大豆の種を植えるのですが、ピストルのような形をした木の先で穴を開け、そこに一粒の豆の種を入れます。 その後穴を踏みつけてから一歩進み、また一歩と同じ作業を繰り返すのですが、私は母の後ろからついて歩き、ただひたすらついて歩くのです。 一歩歩くたびに、「えな、帰ろ」とせがむのですが、母は、「もうちょっとな」、と言っては一歩進むのです。 母もくたびれたのか、私のせがみに答えたのか分かりませんが、しばらくすると、あぜ道に腰を下ろし、私を膝に抱いてくれました。 ある時には、菜の花畑で私は菜の花を折り取って遊びました。 本当は菜の花を育てて、種から油を搾るために作られていたのですが、それを抱えられるだけ精いっぱい折り取ってしまったのです。 でも母は怒りませんでした。 逆に、家に帰ってから、これを煮て食べたのですが、私がその煮物をするために折り取ってくれたのだとみんなに褒めて話してくれました。 農家では、どこの家でも子供は農作業を手伝うのが当たり前でしたが、私は遊ばせてもらいました。 しかし、私の教育については一つの信念を持っていたように思えます。 私の好きなことをとことんやらせてくれました。 音楽をやってみたいと言えば小学校2年生くらいの時には木琴を買ってくれました。 学校中でだれも持っていません。 でも、私がそれを弾いているとそばにやって来て、「上手だね」とほめてくれました。 電気機関車を作って部屋の中を走らせれば、電車を喜んだのではなく、私が自分の力で作り上げ、動かしたことを喜んでくれました。 もっと大きくなって、大学の時、帰郷して家の中で半田ごてを握り、電子製品を作っていますと、暇を見ては私の作業をじっと見ています。 電線に半田ごてがあたっていると、「ほらほら、焼けるよ!」と注意します。「うん」とは言って返事しますが、本当は耐熱電線ですので焼けないのです。 でも、母のその言葉は嬉しかったですね。 大学に進みたいと私が行ったと言うのではありませんし、親が大学に行けと言ったわけでもありません。 当然の道として認めてくれていたのです。 農家ですし、昔は地主である程度は良かったのですが、戦後の農地改革でほとんど取り上げられ、大変だったのに、私は当然大学に行くとされていたのです。 母の教育方針が、「好きな道をとことん追求させる」という考えだったようです。 小さいころから電気の物を作るのが好きで、先に書きましたように、電気機関車を作ったり、鉱石ラジオを作ったりしていましたので、その道に行くことを少なからず願っていたのです。 電気工学の大学に合格した時には、本当に喜んでくれました。 私宛に来る郵便物は、必ず封を切らずに私に渡してくれていましたが、私の留守中に大学から連絡が来た時だけは、母が待ちきれず、封を切って見てしまいました。 「合格」と記されていました。 母は、封を切ってしまって申し訳なかったと詫びていましたが、それだけ待ちわびていたのです。 よほど嬉しかったようです。 母は私をどれだけ愛していてくれたか、当時は分かりませんでした。 いつも、当然のこととして過ぎて来たからです。 でも、父も、母も、姉も、兄も亡くなり、私だけになってしまった今、母の事を思い出しますと本当に可愛がってくれたのだと分かりました。 もっと早く、お礼を言っておけばよかったのにと思います。 父の愛普通なのかどうか良く分かりませんが、父親の愛情を感じたことは少ないのです。母が可愛がってくれたことはよくわかるのですが、父に可愛がってもらったと言う記憶はずいぶん少ないです。でも、父ならではの私への愛情を感じたことはあります。 母とは違い、とても大きく、どっしりとした重さを持っている愛情です。 いわゆる可愛がると言うのではなく、私の生命や人生を左右するような愛情を感じるのです。 これだけは絶対に忘れられない出来事があります。この時の父の姿は何十年たっても覚えています。 私が小学校に入る少し前に、大やけどをしてしまいました。 当時、農家で自転車のある家は少なく、私の部落では私の家だけでした。 大やけどをした私を父が背負い、その自転車に飛び乗って医者に連れて行ってくれたのですか、途中で橋が工事中で通れませんでした。 父は、工事をしてる人に話をしました。自転車は工事をしていた人が何かで向こう岸に渡してくれました。 私を背負っている父は、川の中に入り、胸まで水につかりながら、流れの中を必死で渡ってくれたのです。 そうして私を医者に担ぎ込み、やっと助けてもらうことが出来ました。 その時の父の姿は今でもはっきりと覚えています。 本当にありがたかったです。 私が小さい時から電気の事が好きで、いろいろ作ったり試したりすることは母とともに認めてくれていました。 農家ですから近くに店などありません。ましてや書店などはありません。 父は、ずいぶん離れた町の本屋さんに私のための本を定期購入するよう頼んでくれました。 「子供の科学」という月刊誌です。 私には大変興味のある色々の事が書いてありました。 電気の事も書いてありましたので大変役に立ったと思います。 この、子供の科学に書いてあったのですが、ラムネの作り方が載っていたのです。 ビー玉のようなものをツン押すと飲むことの出来るラムネです。 そのレシピの通りに作って、父に味見をさせました。 すると、「ん?、なんだこりゃ!」、と言われ、私も飲んでみましたら、とても飲めたものではありませんでした。 発泡はしていたのですが、ラムネの味はしません。 砂糖を入れることを忘れていたのです。 そんな失敗もありましたが、「子供の科学」は、私が一生の仕事として電気の道を歩むことになった大きな要因となりました。 父は、私の進むべき道を見抜いていたのかもしれません。 母に対する父の愛情は私なりに感じることが出来ました。 台所用のいつも使う水の事です。 近所の家ではどこでも同じですが、井戸から水を汲んできて使うわけですが、父は、そんな母の姿をみて、いつも苦労しているなと感じたのです。 家の横には小高い丘がありましたので、その横腹にトンネルを掘ったのです。 トンネルの天井からポタポタ落ちる水滴を集め、木管を引いて台所まで常時水が来るようにしたのです。 長いトンネルを手作業で掘り進めたのですが、それこそ大変な努力だったと思います。 母はその水のおかげで井戸まで行かなくても済むようになりました。 高校の時、当然受験勉強しなければならないのに、私は詰将棋で遊んでいました。 すると父はものすごく怒り、将棋盤を叩き割ってしまいました。 その時は私は父を恨みましたが、結果として大学に合格したわけであり、将棋で遊んでいたら人生が狂っていたかもしれないのです。 父は、黙っていながら、奥深く見抜いていたのだなと、今になって思い、感謝しています。 本当に、亡くなる前に一言くらい礼を言っておけばよかったと思います。 私の知らないことを知っていた両親母私は50才くらいの時、仏陀は何を言いたかったのだろうかと本当の事を知りたくなり、原始仏典を相当勉強しました。縁起の事や、空の論理などずいぶん掘り下げて研究したのです。 そうして「貝葉に見る般若心経の秘密」と言うタイトルでインターネットに出すまでに至りました。 般若心経には、「色即是空」で有名な「空」と言う言葉が何回も出てきますが、その意味を私なりにある程度理解しました。 とても悟りを得たと言うわけではありませんが、何を言おうとしているかの程度は理解したつもりでした。 ところが、母はその上を行っていることが分かったのです。 母は、町中で一番と言われるお寺に通い、その住職から直筆の書をもらうほどでした。 そうして私に言うのです。 「お経は声を出して読まなくても良いのだよ。心の中でその意味を噛み締めることが大切なのだ」と。 横になって布団の中でもそれはできる。 読むよりも思うことの方が大切なのだと言ったのです。 実は、私がその論理を勉強している時、会社の重役から言われました。 「君のは単なる理論だけだ。心で分かっていない」と。 母はそのことを既に心得ていたのです。 仏の本当に言いたかったことは、論理よりも心で感じることなのだと理解していたのです。 物は存在しないけれども、そこにある。と仏陀は言っています。「空即是色」です。 物は存在しているけれども、それは無いのだとも言っています。「色即是空」です。 この論理を単なる理論ではなく、心で感じ取ることが大切なのだと、母も、重役も私を諭してくれたのです。 母の言葉を聞いた時にはびっくりしました。 私が数年間かけて原始仏典を読み解き、仏陀の言わんとしたことを理解しようとしていたその上を言い切ったのです。 母がそれだけ仏教を極めていることはその時まで全く知りませんでした。 それらしきことは何一つ話してくれたことがないからです。 私の知らないことをしっかりと知っていたのです。 父私は電気の事は好きでしたから小学校の3年生頃には鉱石ラジオを作っていましたし、もう少したったころには電気機関車も作っていました。扇風機を作ったこともあります。 でもこれらは数ボルトの電圧で動くものばかりです。 家庭に来ているのは100ボルトですから、この100ボルトを数ボルトに変換する必要があります。 この電圧を変換するものを「トランス」と言います。 私は、トランスを買ってきて、電気機関車や扇風機を動かしていたのですが、そのトランス自体を作ってみたくなったのです。 トランスとはどういう仕組みになっているのか、どういう材料から成り立っているのかかなり勉強しました。 電気から磁気を作り、その磁気から再び電気を作るのだと分かりました。 鉄の枠にコイルと言って電線を何回も巻いた装置になります。 電線はエナメル線を使えばよく、町の店にも売っていましたので手に入ったのですが、これを巻き付ける鉄の枠が問題なのです。 ロの字をした鉄の枠なのですが、これは短冊を四角形に積み重ねて作らなければならず、しかもその鉄の材料は「ケイ素鋼鈑」という特殊な材質の鉄なのです。 この材料の入手には困ってしまいました。 それで父に相談したのです。 すると父は、「ケイ素鋼鈑」のことを知っていたのです。 しかも入手先まで知っていたのです。 そうして知人から材料を買ってきてくれたのです。 勉強もしていないはずの父が、どうしてトランスの材料である「ケイ素鋼鈑」という鉄材を知っていたのか不思議でなりません。 父は古物商を営んでいる知人からこの材料を仕入れてくれたのです。 私の知らない相当専門的なことを父は知っていたのです。 そうして私のために仕入れてくれたのです。 不思議でしたがそんなことはどうでもよく、私はその材料を使ってトランスを作り上げました。 子供にしてはレベルの高いものを作ったと言うことで、学校から市の展示会に出され、新聞にも載りました。 更に市の代表作品として、県大会にまで行ったのです。 どうして父がこの材料の事を知っていたのか謎のままです。 しかし、このように私の認識しない間に、色々の愛情を注いでくれていたのです。 その結果として、私は自分の好きな電気の道を歩くことが出来たわけであり、本当に父には感謝しています。 自分の子供に対して私の母や父の話は今述べたようですが、それでは私は自分の子供たちにどのように接してきたのかを考えてみますと、全くお恥ずかしい限りです。子供に対して愛情をもって接したなどと言う記憶がないのです。 子供たちがどう感じているかも分かりません。 ただ言えることは、親子喧嘩したことはないと言うことです。 もちろん悪いことに対してはしっかり叱りましたがこれは喧嘩ではありません。 人としての道を踏み外さないよう、注意したわけです。 愛情をもって接したと言う意味ではないかもしれませんが、子供たちの進むべき道に対しては注意を払いました。 私の子供は、長女と長男がおり、長女には孫が3人授かりました。 長女は高校を上位で卒業しましたが、大学には行かないで看護婦の道に行くための勉強をしたいと言い、その道に進ませることにしました。 卒業後、さっそく看護婦の仕事を始めました。。 結婚後しばらくは子育てのために看護婦を休んでいましたが、その後も引く手あまたで、あちらの病院からもこちらの病院からも来てくれ来てくれと言われ、現在も小遣い稼ぎだとは言っていますが、看護婦の仕事をしています。 夫は大企業の相当なポストにおり、お金には困らないはずですが、看護婦で稼いだお金で私たちに旅行をプレゼントしたりしてくれています。 私が、子供にどのように接したかをお話ししたかったのですが、逆の話になってしまいました。 話を元に戻しますが、私が、長女の望む看護婦と言う道を認め、後押ししたことくらいでしょうか。 家内は、詳細は私にも話していませんが、人並み以上の嫁入り支度はしてやったようです。 長男に対しても同じようなことで、彼は高校は通信教育で卒業し、電気の専門学校に行くことを考えていました。 しかし、彼は電気とは言っても、私のように設計開発と言う道は選びませんでした。 現場の方が自分には適していると考えていたのです。 そのため、そう望むのならその道に行きなさいと言うことで、学費を出しました。 卒業後、就職し、自分の力で自動車も買いました。 その車庫を作るお金を私が負担したことくらいでしょうかね。 本当に特段の接し方をした覚えは全くないのです。 3人の孫がいますが、その3人とも自分の選んだ道をわき目も振らず、一筋に歩いています。 私が強要したのではありません。 自然にそうなって行ったのです。 子は親の背中を見ていると言われますが、人生をいかに歩むべきかと言うことについて、教えもしないのに私と同じ考え方で生きていこうとしていてくれます。 人生とか、進むべき方向とか、私から示したり提案したことは一度もありません。 それなのに、全員、私と同じ考え方を持ち、自分の好きな道を歩こうとしています。 私も気が付かないうちに、自然と教えていたのでしょうか。 まあ、それが私の唯一の愛情かもしれません。 |