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大学でお世話になった先生に、私の人生を決定づけて頂いたと言っても過言ではありません。 大学での勉強はもちろん、恋人の問題の相談に乗ってもらったり会社への就職など全面的にお世話になりました。 大学に至るまで私は小さい時から電気の事が好きでした。理科や算数が得意でしたが、国語や社会などは苦手でした。 中学、高校と進むにつれて好きな科目と嫌いな科目ははっきりしてきて、好きなのは物理と数学だけになってしまいました。 この二科目ならばちょっと負けないだけの自信はありましたが、その他の科目はカラッキシでした。 高校の後半になったころ、自分の人生についてどのようあに進むべきか考えるようになりました。 物理と数学しかできませんからその道しか考えられませんが、ずいぶん考えました。 一つは数学の先生になる道です。 公務員になるわけですから安定しています。 もう一つは好きな電気の道に行くことです。 電気は物理の中ですから得意ですし好きな道です。 しかし会社に勤めるとなれば、電気とは言ってもどのような職場に行くものかわかりませんし、会社が倒産することだってあり得ます。 数学の先生になるか、多少危険でも好きな電気の道に行くべきか真剣に考えました。 その方向によって、勉強の仕方が変わってくるからです。 さんざん考えた末、好きな道、電気の道へ行くことを決意しました。 電気の道に行くとすれば、大学は電気工学科に行きたいと思いましたが、たいていの大学は色々の科目の試験を受けなければなりません。 英語は苦手ですから困りました。 色々さがしましたら、物理と数学だけでよいと言うところがありました。 入試問題が物理と数学だけなのです。 ところが、これは超難関でした。 給費生と言って大学から多額のお金をもらうことの出来る学生になることです。 普通の高校生はそのような高度な試験には挑戦しません。 電気工学科では1名だけ採用すると言う試験です。 電気工学科は100名か200名ですが、そのなかでトップ成績で合格せよと言う意味になります。 試験科目は物理と数学だけでよいけれども、電気工学科のその1名にならなければならないのです。 その試験を受けることを決意しました。 物理と数学ならだれにも負けてたまるか! 猛勉強を開始しました。 ほかの科目は高校を卒業出来れば良い程度に勉強して、物理と数学に全精力を傾けたのです。 しかし家では兄夫婦の子供が騒いでいますので、うるさくてかないません。 それで土蔵の中で勉強することを思いつきました。 ここは快適な環境でした。暑くもなく、寒くもなく、まったく静かです。 参考書も擦り切れるほど読み通しました。 結果、 合格できたのです。 大学は電気工学科の給費生として合格したのです。 大学に入って助手になる大学に入って勉強を始めました。物理と数学ならまったく問題ありませんが、ほかにも色々の科目もあります。 一番苦手な英語だってあります。 それが、給費生の資格を維持するためには、総合成績で電気工学科のトップとは言いませんが、上位につけていないといけないのです。 結構苦労しました。 担任の先生から呼び出しがあり、突然、「助手にならないか」と言われたのです。 電気工学科ですからいろいろ電気の実験があります。実験の前段階として機械をセットしたり配線したり準備が必要ですが、その中に誤りがあると、機械が焼損したり爆発したりする可能性もあります。 ですから学生が準備できたら先生に見てもらい、OKであれば実験開始することが出来ます。 しかし担当の先生は一人ですのであっちをみたりこっちを見たりで忙しいわけです。 そのため、先生の助手になって、実験の準備をチェックする仕事をしないかと言われたわけです。 給料も出ます。 もちろん私はお願いしました。 皆よりも先に自分で勉強し、どのように準備すればよいかをしっかり覚えました。 そうして先生の代わりにみんなの面倒をみる立場になりました。 大学の冊子には先生の紹介と言うところがあり、教授以下ずらりと記されていますが、最後の所に助手として私の名前も載っていました。 職員室には私の机を置いてもらい、職員の慰安旅行には先生方と一緒に行きました。 このような助手はもう1名いました。 その1名とは机を並べていましたので、仲良くなって親友のような付き合いになりました。 電気工学科の担任の先生から名指しを受けて助手となったわけですが、職員室で一緒にいる時間もかなりありました。 私は尺八を父からならい、少しやっていましたが、先生から「君、尺八やってるそうだね、すこし教えてやろうか」と言われ、ずいぶん教わりました。 父から習った流派は琴古流でしたが、先生は都山流でした。 そのため、私の尺八は都山流になってしまい、今でも都山流でやっています。 先生は電磁気論を教えておられました。 教室では先生からその講義を受けましたが、職員室におられる他の先生からは他の講義を受けました。 みんな先生は顔見知りになりましたので代返はまったくできませんでした。 代返というのは、出席を取るために名前を呼ばれた時、友達に頼んで代わりに返事をしてもらうことです。 これがうまく行けば自分は遊びに行っていても出席したことになるわけです。 恋人との問題を先生にお願い私には、高校の終わりころから文通で知り合った彼女がいたのです。何でも先生とよく話をしていましたので、先生もそのことをご存知でした。 彼女の親御さんともお会いし、結婚の了承もいただけました。 ところが私の親たちは猛烈に反対し、許してくれませんでした。 両親は私の田舎の農家です。 この大学は都会の中ですからずいぶん離れており、私は下宿生活でした。 先生に私の悩みを打ち明けたのです。 大学の先生に、私の恋の悩みを打ち明けたのです! するとどうでしょう、先生は、「君の親御さんと会って説得してやるよ」、と言ってくださったのです。 電気工学科の先生として講義をしてもらい、助手にまで採用してもらい、今度は全く個人的な話です。 本当に先生は良い方で、親身になってくださる方です。 先生にお願いすることにしました。 電車賃を本来なら私が出さねばならない所ですが、ピーピーなことを知っておられた先生は、ご自身で行ってこられたのです。 でも、結果は駄目でした。 先生にご努力頂いたのに、申し訳ありませんでした。 そんな具合で、とにかく先生にはお世話をかけました。 この先生は、公私ともにお世話になった先生なのです。 でもまだお世話をかけることになるのです。 電気の会社に世話してもらう卒業近くになって、ある会社に就職がほぼ決まっていたのですが、このお世話になっている先生から、「その会社をキャンセルして、私の紹介する電気の会社に行かないかね」と、お話がありました。先生の紹介される会社を訪ねてみました。 なかなか良さそうでしたのでこちらに行くことにしました。 乗り換えたのです。 まだ前年で夏休みの頃でした。 お世話になっている先生の紹介で決めたその会社で、「公共施設で大々的な実験があるから一緒に行かないかね。社員の出張扱いでやるから費用の事は心配いらないよ」と言われ、行ってみることにしました。 見たこともない大規模な実験に驚きました。 翌年の3月になり、正式に入社が決定しました。 入社試験もなしです。 先生のご紹介なので無条件でした。 先生は、私の事をかなり宣伝されていたようです。 最優秀の子だからと。 入社しましたら分かりました。 先生はその会社の技術顧問をされていたのです。 そうして大学での研究費など会社から相当の支援を受けられていたようです。 企業と大学。 昔からそういうつながりがあったのです。私は知らなかったのですが。 先生の宣伝文句がよく効いたのか、会社では優遇されました。 設計部署に配属されたのです。 新製品開発を行う設計部署です。 私の人生計画として、夢に描いていた道そのものです。 新製品開発は楽しいですが、思っていたより過酷でした。 性能、コスト、開発期間、色々の制約があり、開発するには問題ばかり発生しました。 情熱と努力で乗り越えてきましたが、先生の技術的アドバイスも助かりました。 会社に入ってからも、大学でお世話になった先生にまたまたお世話になったのです。 この会社は良い所でした。 好きな設計もできました。 ここに至ることが出来たのは、この先生のおかげです。 もし大学にこの先生が居られなければ、少なくともこの会社には就職していなかったでしょうし、どのような人生になっていたか分かりません。 この先生によって私の人生が決まってしまったようなものです。 先生は会社には月に一回ほど来られました。 最近の出来事とか、技術的問題など雑談交じりに数時間居られますが、私が中間管理職程度になってからは先生のお相手は私が行いました。 会社の技術顧問である先生のお相手をさせて頂きました。 私の事は何でもご存知の先生ですから、雑談も互いに遠慮なしでした。 しかし思い返してみますと、色々の方に色々のお世話になっていますが、この先生ほどお世話になった方はおられないと思います。 本当にお世話になった先生なのです。 この先生に、私の人生を決定づけて頂いたと言っても過言ではありません。 在学中はもちろんのこと、就職から、会社に入ってからの仕事の事までお世話になったのです。 |