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本当に愛する人などと言いますが、愛は感じるものですから、言葉や文字で説明できるものではありません。 心が愛を感じるのです。本当に愛する人ならば、相手の方もきっと私に愛を感じることでしょう。 言葉で言わなくても愛は感じるものなのです。 愛するとはどいうことか私の経験から私は現在77歳の喜寿ですが、20歳の頃は本当に愛する人がいました。愛する人が「いました」というのは、結婚を間近に控え、その人が突然亡くなってしまったからです。 恋愛とはどういう気持ちか、愛を感じるとはどういうことか十分経験しました。 別の項でも書いていますが、この人とは高校の時文通で知り合ったのですが、だんだん付き合いは深くなり、恋するようになってしまいました。 私もそうですが、彼女も同じ愛を感じる気持ちになってくれました。 大学に進み、さらに社会人として働き始めてもその恋は続き、いわゆる「本当に愛する人」どうしになって行ったのです。 以心伝心で互いの気持ちは伝わってきます。 好きですとか、愛していますなどとは言ったことがありませんが、お互いそんなことは言葉に出して言わなくても十分わかるのです。 もし、言葉で、「愛しています」と言われたとすれば、私は「ありがとう、でも愛しているってどういうこと?」、と聞き返したかもしれません。 逆でも同じです。彼女から聞き返されるかもしれません。 でも、そのとき、「本当に愛する人」と言うことをどう表現すればよいのでしょうか。 少なくとも私はその説明はできません。 いくら辞書を調べても、「愛」とはこういうものだと説明はされていません。 いくつもの解釈がありますが、愛は感じるものですから説明しにくいのです。 後述しますが、仏教では「愛」は「性愛」や「愛欲」、「慈悲」とも言われていますし、「愛」は実在しないとも言われています。 言葉で言わなければわかってもらえないようなら、まだ「本当に愛する人」になっていない状態だと私は思います。 言葉で言うとすれば、「愛」とはなにかも分かっていないのに、「愛しているよ」と無責任なことを言っているわけです。 愛は心が感じるものなのです。 経験のない人には、いくら説明しても分かってもらえない、心の感じなのです。 親が子供を可愛いと思うのと同じように、完全な説明はできないのです。 単に、例や事象を述べるだけにすぎません。 例えば、「あなたがいなくなったら、私も生きてはいられないません」とか、「一緒にいるだけでとても安心できます」とか、「もう恋の時は過ぎ去ってしまったのね、愛しているのですから」などと甘い言葉を並べるだけです。 でもどれ一つ、自分の本当の心を表現することは出来ていません。 愛は心にあるのです。愛は感じるものなのです。 「感じ」ですから、見せようにも見せられませんし、説明しようにも十分な説明はできません。 もし、愛は感じるものではないとするならば、その「愛」という「物」を取り出して見せてください。いや、見せてやってください。 ハート形ですか?、丸形ですか、でこぼこ型ですか? 取り出せないものの形は分かるはずがありません。 なぜ取り出せないかと言えば、それは心が感じている「感じ」だからです。 でも、不思議なことに、この「愛は感じるもの」だと言うその心は、相手にきっちり伝わるのです。 彼女の私を愛していてくれる気持ちは私には良く分かりますし、私の気持ちも彼女には十分伝わるのです。 言葉や文字で伝えることは出来ないのに、相手の心の中がわかるのです。 こうならなければ「本当に愛する人」、「愛し合っている」とは言えないと言うのが私の経験です。 仏教でいう「愛」・・唯識私は仏教家でもなく、学者でもありません。ここで述べるのは、単に私の理解ですので間違っていることも十分に考えられますから、参考程度にとどめておいてください。 唯心論とか唯識と言う言葉を聞かれたこともあると思いますが、これらはその対象物は存在することはなく、心が意識しているだけだと言うようなことを述べています。 唯識についはwikipediaの唯識をご覧ください。 唯識とは、個人にとってのあらゆる諸存在が、識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つとされています。 ここで、識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と意識です。 さらに個人の無意識の領域をも内含するとされています。 しかも、それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうものであり、これらの存在は「空」であると言われます。 もう少し簡単に理解しやすく説明します。 全ての物は、そこにあるように思えるけれども、それは見たり触ったりした感覚から、「そこにある」と意識として認識されるものです。 愛は感じるものですから、意識として認識されます。 しかし、その認識されているもの自体は、時とともに移り変わるものであり、永遠不滅の存在ではなく、今あるだけなのです。 そのような存在を実体のない「空」としての存在と言うのです。(そらではなく、クウと読みます) 愛も実在はしないのです。永遠に変わらないものではないから空なのです。 愛は感じるものであるということは、今までは感じなかったのに愛を感じるようになったのですから変化した証拠です。 変化するものは実在するものではなく、空として存在している。これが仏教の考え方です。 「色即是空」(しきそくぜくう)という言葉を聞かれたこともあると思いますが、「色」というのは事象とか物の事で、この世に存在するすべての物を指しています。 「即是」は、「すなわちこれ」です。「空」だと言うのです。 「色」「すなわちこれ」「空」 世に存在するすべての物は、時とともに移り変わる「空」だというのです。 仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)は、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念があります。 愛は、人間の最も根源的な欲望と、ふつう「性愛」「愛欲」の意味に用いられます。 これに対してもう一つの愛は、慈悲です。 さて、ややこしい話になりましたが、ここで私の言いたいことは、私の若かりし頃の「愛は感じるもの」と言う実感は時とともに変化してきていると言うことです。 まさに愛は「空」だと言うことを現実に体験してきているのです。 いま、本当に愛している人どうしも、時とともに変化していくことはやむをえないことです。 いつまでも愛し続けると約束しても、それは無理です。絶対無理です。 心が無くなれば愛することは出来ないからです。 心が無くなるとは、自分が死ぬか、ボケるかです。こうなれば相手に対する自分の「愛は感じるもの」と言う心そのものが無くなるのです。 もう50数年前の本当に愛する人としての彼女に対する愛は、今現在、彼女が亡くなったにもかかわらず、まだ片鱗は残っています。 その意味で、まだ彼女は私の心の中で少しづつ変わりながら生き続けています。完全ではありませんが、まだ彼女は生きているのです。 愛することは心が感じることであり、私の心が健在なうちは、薄れながらも生き続けてくれることでしょう。 |