本当に愛する人とは

人生を楽しむコツは好きな道を歩くこと

 
本当に愛する人とは、「愛しているよ」などと何回も言わなくてもよいほど愛しあっている人のことです。
本当に愛しあえば心が心に伝わって来るからです。
このような本当に愛する人が居てくれるということは、人生を楽しくしてくれます。

私が本当に愛した人についてお話しします。

愛とは

愛とはどういうことか辞書などに色々記されています。
 いとしく思う。いつくしむ。いたわる。かわいがる。
 男女が思いあう。親しみの心。愛欲。恋愛。
などと解説されています。

本当の愛

しかし本当に愛していると言うことを言葉で言い表すことは至難の業です。
実際に本当に愛し合って見なければその感覚は分からないと言うのが本当だろうと思います。

いくら愛していても、その愛を取り出して見せるわけにはいきません。
愛すると言うのは心の働きであり、その状態のことを言うのですから、「物」ではありません。
しかも人それぞれの愛し方がありますから、本当の愛はどういうものだと定義するわけにもいきません。

次の図をご覧ください。

愛の意識模式図

この図は、愛情をどれだけ意識しているかを模式的に表した図です。
どれだけ意識しているかと言うのは、日常その人の事を常に思い続けているか、時々思い出すかというその度合いのことです。
あくまでも説明のために作った模式図ですから、正確に何%意識しているかと言うことを表しているわけではありません。

この図の曲線として「恋愛」と「見合」があります。
また、この図の中に「A」、「B」と記してある場所があります。

A点は恋愛の真っ最中で、それこそ愛し愛され、片時もあの人の事を思わない時などないと言うような状態の所です。
本当に愛する人とはこのような状態の時に現れてきます。

B点は結婚後何十年もたち、もう老夫婦となったところです。
このB点は愛情について常に意識しているわけではなく、夫婦互いに十分深く愛し合っていながらも、日常ほとんど愛と言うことについて意識することがなく、まるで空気か水のようなものです。
すごく大切なのに、普段は意識に登って来ないのです。しかしここにも本当に愛する人が居てくれます。意識に登らなくても愛しあっていられるのです。

A点での愛は想像がつくと思います。
もうベタベタです。
二人がデートしていれば、周りの人はやけどするかもしれません。
こんな状態にまで互いの愛情が高まっていれば、もうお互いに「愛しているよ」などと言う必要はありませんし、もし真面目な顔でそれを言うならば、本当に愛していなく、愛しているふりをしている時です。
本当の愛は、言葉ではなく、愛しているその心が相手の心に届くのです。

私の経験ではそれは間違いありません。
お互いに、「愛しているよ」とか、「愛していますわ」などとは言いません。

もし、貴方がたのお付き合いの中で、その言葉が出てくるとすれば、まだ本当に心が通い合っていなく、本当の愛には至っていないのかもしれません。

B点での愛は想像することが出来にくいかもしれませんが、A点での愛の深さと同じくらいの愛情を互いに持っているのです。
ただ、日常生活においてそのことが意識に出てこないのです。
仲の良さそうな老夫婦と言うのは、その愛がにじみ出てきています。
買い物かごを旦那さんが持っていたり、杖をついている奥さんに腕を貸しているご主人の姿などにも本当に愛する人の姿が見て取れます。

ただ、図の中で「夫婦愛」と記してある水平な線は、時として破綻することもあります。
例えば浮気が原因で夫婦灘が悪くなり、離婚してしまうとか、何年かすると互いの欠点が気に障るようになってきて仲たがいするなどその例はいくらでもあります。
この図のようにいつまでも深い愛情を持ち続けられるようにしたいものです。

Bの場合ももちろん本当の愛です。長続きしていると言うことがそのことを証明しています。

本当に愛する人と言うことは、恋愛の時のように激しい愛に包まれている人どうしの場合もありますが、老夫婦のように長続きしてきた愛に包まれている人の場合もあるのです。
AとBの例で示したように、質の異なる本当の愛があるのです。どちらも本当の愛なのです。
本当に愛すると言うことに共通しているのは、「愛している」という言葉ではなく、「愛している」その心が互いの心に伝わると言うことです。

私の経験・・大恋愛

出会い

大学の受験勉強をしていた時、「蛍雪時代」という受験用の雑誌がありました。
大学の情報や、試験問題についての傾向と対策とか、色々の情報が載っており、インターネットなど無い時代には重宝しました。
その「蛍雪時代」にも一休みのコーナーがあり、ペンフレンドと言う文通の募集が載っていました。
皆大学を目指し、必死に勉強しているのですから、手紙を通して気持ちを交換するのも良いと思ってその中の一人に手紙を出してみました。
数は少ないですが、女性の名前もありました。
どうせのことならと思い、女性の方に申し込んでみたのです。
私は字がとても下手で、自分でも読みづらいほどですので、とても相手にしてもらえるとは思えませんでしたが、ダメモトで応募してみたわけです。
しばらくしましたら、何と返事が来たのです。
私を文通相手にしてくれると書いてありました。

後で分かったことですが、二十数名から申し込みがあり、その中から2〜3人にOKの返事を出したのだそうです。
なぜ私がその中の一人に選ばれたのかと言いますと、字は一番下手だったけれども、文章が分かりやすく、要点をきっちりまとめてあったからだそうです。しかし長続きしたのは私だけになってしまったそうです。

私も、その人も受験勉強は終わり、大学に進学しましたが、手紙のやり取りは続きました。
ペンフレンドというのは手紙によって日ごろの出来事とか伝え合うものですが、私も彼女も互いに写真を交換しようと思うようになりました。

するとお互いに会ってみたくなってきたのです。
遠距離ですので中間地点で会うにしても、多少の時間を作るためには一泊二日の旅程を組まなくてはなりません。
私は男ですから良いですが、その人は女性ですから、一泊二日で宿を共にすることには相当ためらいはあったと思いますが、実行されることになりました。
相手の方に迷惑をかける結果になってしまってはなりませんから、絶対手は出さないと自分に誓いました。
無事に夜を過ごし、朝方、「膝枕してもいい?」と聞いたらOKでしたので軽く横向きになって膝を貸してもらいました。
すると、私の頬にポタっと涙のしずくが落ちてきたのです。
どうしたの?と聞きましたが理由は話してもらえませんでした。
次の日、滑りやすい岩だらけの道でしたので、手を取ってやりました。
とても柔らかい手でした。はじめて手を握ったのです。
そうして、別れる時、「また会えます?」と聞かれ、もちろんですと答えましたが、その言葉の中に、膝枕のしずくの答えがあったのではないかと思いました。しかし本当の答えは謎のままとなってしまいました。

恋から愛へ

手紙のやり取りは頻繁になり、また会う機会もできるようになりました。
小学校の時の淡い恋や、中学の時の先生に叱られてやめてしまった恋などとは違い、本当の恋になって行ったのです。

結婚の約束もしました。
彼女の父親は戦死されたため母親だけでしたが、私もお会いし、将来結婚しても良いと承知していただけました。
所が、私の両親は許してくれませんでした。
私は周りからも祝福してもらえる結婚を望んでいましたし、まだ大学生ですから時間をかけて説得することにしました。
大学の2年生、3年生頃は楽しく過ごすことが出来、もうその頃は恋と言うよりも愛し合うと言った方がよいほどになってきました。本当に愛する人になってきていたのです。
私が会社に入りましたが、まだ両親は承諾してくれませんでした。

彼女は結婚を待ちきれなくなってきたのです。
お互いに愛し合い、本当に愛する人どうしになって来ていたからです。
このように本当に愛する人には、愛しているよなどという言葉は使いません。
逆に「愛しているよ」とか、「愛していますわ」などと言えば空々しく感じます。
本当に愛している人にはそのような言葉は不要なのです。

そうしている間も手紙は続きますが、どうもいつもと違う雰囲気の手紙になってきたことに気づき、念入りに見ていますと、暗号で、精神病院に入れられ、手紙は検閲を受けていることが分かりました。
病院の住所もきっちり読み取ることが出来ました。

早速その病院に行き、先生に彼女との面会をお願いしました。
先生方で相談されたようですが、私が来たことは彼女を安心させられる効果があるだろうと言うことになり、二人で散歩に出かけることが許されました。
彼女は泣いて喜びました。
早くここから出したほしいとか、電気をかけられることなど切々と訴えました。
母親や先生にお願いし、その後早くに退院できました。
いつまでも結婚できないのが原因で、ノイローゼになっていたようです。
私が出かけて行ったことで、やはり信じてよいのだと納得し、快方に向かったのでした。
母親は精神病院に入っていることは知られたくなかったらしく、私に知られたことを非常に驚いていられました。
しかし私も大学ではトップクラスの成績でしたし、彼女も大学のクラスでは最優秀の人でしたので、暗号は検閲を通り抜けることが出来たのです。

その後しばらくしてからの事ですが、突然彼女が私のアパートにやってきました。
そうして「私家出してきたの」と言うのです。
真剣に同棲を考えました。
住む家も不動産屋さんに頼んで見つけました。
でも彼女の母親が来て、強引に連れ帰ってしまいました。

愛の結末

私も、そして私の本当に愛する人も、互いに「愛しています」などと言ったことはありません。
それこそお互いの心は伝わるのです。
以前、私は「以心伝心」の「以心」を、「にたこころ」と思っていました。「似ている心は心に伝わる」と解釈していたのです。
しかしそれは間違いでした。
心をもって心を伝える、だったのです。以の字はもってと読むのです。
愛とはどういうことか説明できないのに、愛していますと言うのは考えてみればおかしいわけです。
私が彼女を心に受け止めているその感情が愛なのであって、それを言葉で表現することはできないのです。
言葉で伝えることはできなくても、私の心は彼女に伝わりましたし、彼女の心は私の心に伝わってきました。
これが以心伝心だと思います。
本当に愛する人ならば、好きですとか、愛していますなどの言葉以上に、本当の自分の心は自然に相手の心に伝わるのです。

このように互いに心を通じ合っており、ついに私の両親も結婚を認めてくれることになりました。
このことを手紙で知らせようとしたその時、彼女の母親から私の所へ一通の手紙が来たのです。

「ご厚情を賜りました娘が、急死いたしました」との内容です。
それこそびっくり仰天で、飛んでいきましたが、すでに葬式も終わっていました。
白い箱の前に線香の煙が緩やかに上がっているだけです。
そんなことがあるわけがないと信じられませんでしたが、なぜ亡くなったのか聞いてみましたら、狭心症が原因だと言われました。
心筋梗塞なら分かりますが、狭心症くらいで亡くなるとは思えませんでしたが、泣く泣く帰るより仕方ありませんでした。
母親は悲しみの持って行き場がなく、私に当たられましたがそれは仕方のないことですし、私自身もしばらくは茫然としていました。
数か月を経て、ようやく現実を受け入れ、仕方のないことは仕方ないのだと心を整理しました。
しかし本当に一生の間で、これほどのショックはありませんでした。
人生を楽しむと言うタイトルで書いていますが、決して楽しい時ばかりではありません。
苦しい時も、悲しい時もあるのです。
それでも、あの愛する人の思い出は楽しい人生の一幕でもあり、今でも、心の中に生きています。
愛とは言葉ではなく、心で感じるものだと私は信じています。

愛は人生を楽しくする

人生とは

人生とは、人がこの世で生きることや、生きている時間、経験などのことです。
この世で生きていると言うのは、生まれていて、まだ死んでいないことです。
人生は各々の人によってすべて異なるのです。双子の兄弟であっても違いますし、父や母とも違う自分が生きているのです。
近所の方もそれぞれ自分の生き方をしているわけですから、皆違う人生を持っています。
生まれていなければ人生は始まっていませんし、死んでしまえば人生は終わります。
結局、世界の人口の数だけ人生の数があるわけです。

人生観

人生観を一口にまとめて言うことは出来ないのではないかと思います。
人生観には様々なタイプのものがあるからです。
漠然としたものもあれば、明瞭なものもありますし、簡潔なものもあれば、体系的で複雑なものもあります。
さらに人生の目標や人生の評価を含めた人としての生き方を考察するものもあります。

人生観は客観的なものではなく、主観的なものですから人それぞれによって感じ方が違います。
人生観は、「物」として存在しているのではなく、「心が感じ取っているもの」なのです。

このため人生観には情緒的な要素が含まれていることが多くなります。
自分の過ごしてきた人生の単なる記録ではなく、そのことをどう感じたかと言う心が入り込んでいるのです。

人生をどのように心に感じるか、その人自身が感じたことが人生観なのです。

人生と愛

「人生を楽しむ」とは、自分の人生を振り返ってみた時、良い人生を過ごすことが出来たと評価できると言うことです。
人生を楽しむ方法と言うのは、毎日毎日を常に楽しく暮らす方法と言う意味ではありません。
悲しい時も辛い時も必ずあります。
その壁を乗り越え、自分の人生によい評価をもつことが出来たなら、「人生を楽しむ」ことが出来たと言えるのです。

「人生を楽しむ秘訣は、好きな道を、愛と感謝の心をもって、一筋に生きること」となります。
好きな道を選び取り、その道を一筋に歩くことです。
この道を進むとき、常に愛と感謝の心を持たなくてはなりません。
愛は、恋人であったり、友人に対してであったり、子供や部下に対しての愛、あるいは夫婦の愛だったりします。
感謝も、多くの人や物に対しての感謝です。

「本当に愛する人」がいることは人生を楽しくしてくれます。
その愛している時の毎日毎日が楽しいと言うのではなく、もっと大きくとらえて、人生を振り返ってみた時に、「あの本当に愛する人」のことを思い出せるのです。
私の場合、本当に愛した青春時代のその人は突然若くして亡くなられてしまいました。
その時の私は打ちひしがれ、本当に生きているのさえ辛いほどでした。
でも、その事実を受け入れ、心を整理して現在の妻と結婚しました。
妻とは、夫婦と言う愛が生まれ、互いに愛し合うことが出来ています。

人生を楽しむ上において、大切なことはいろいろあるでしょうが、私の心には、その亡くなった彼女を本当に愛したことが大変大きな位置づけになっています。
妻には申し訳ないのですが、忘れられない事実なのです。
(ちょっと余談:妻もそのことを知っており、時々やきもちを焼きますので可愛いです)

「人生を楽しむ」ためには、好きな道を一筋に生きることも大切ですが、「本当に愛する人」がいるというのも大切なことです。

愛とはなにか

愛の本質

Wikipediaには愛についての一部ですが次のように記されています。
 イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」と。
キリスト教においては、愛は非常に大きなテーマであり、「神は愛である」としばしば表現されるようです。

しかし実際の話、「愛」とはどのようなものか、これではさっぱりわからないと言うのが本音ではないでしょうか。

私の思う愛とは

「愛」については色々の解説がありますが、これらの解説を離れて、私の感じた「愛」と言うことについてお話しします。
「本当に愛する人」がいると言うことは、私自身がその人を愛していると言うことです。
その愛しているとはどういうことかを説明したいのですが、私は愛を言葉で説明することは不可能だと考えています。
愛しているということを、言葉で述べることは出来ないと思うのです。

私はよく「赤い色」ということを言います。
もし、生まれた時から目の見えない人に、赤い色とはこういう色だといくら説明しても分かってはもらえません。
そこに赤い色が存在しても、人の心がそれを感じなければ赤い色は見ることが出来ません。
赤い色は、「人の心が感じ取る」時に分かることなのです。

「人の心が感じ取る」と言うことについて、別の例を示してみます。
こんなことはまずあり得ませんが、生まれてこのかた一度も熱いものに触れたことのない人に、熱いと言うのはこういうことだといくら説明しても分かってはもらえません。
しかしその人に、本当に熱いものをちょっと当ててやれば、瞬間に熱いとはこういうことかと分かってもらえます。

愛すると言うことも、このように人の心が感じ取っていることですから、その人がどのように感じ取っているかは説明のしようがないのです。
しかも厄介なことに、意識の上に出てこない、感じ取り方もあるのです。
無意識とか潜在意識とかいわれる感じ取り方です。
気が付いてみたら、愛していたと言うことだってあり得ます。

恋と愛の違い

恋と愛の違いについて少し調べてみましたが、明確な答えは見つかりませんでした。
私の納得できたのは、恋は愛の始まりであり、恋から次第に愛になって行くと言う説明です。
どこまでが恋でどこからが愛かという境目は無いとも記されていましたが、私もそのように思います。
「初恋」とは言いますが、「初愛」というのはあまり聞いたことがありません。なぜ初愛という言葉がないのかも調べてみましたがこれも明確な答えはありませんでした。
私の思うのには、恋から次第に愛になって行くと言いました通り、恋の始まりはあっても、愛に変わる境目は無いからではないでしょうか。

夫婦の愛

結婚して何年かしますと、結婚前の燃え上がるような愛情とは違った感じの愛になってきます。
何年もたったから愛情が無くなってきたと言うわけではありません。
夫婦愛と言う愛に変化してきていますが、互いの愛情は深く、強いのです。
しかし夫婦愛というのは、本当に愛する人どうしなのに、そのことが意識されない愛なのです。

空気や水は無くてはならない大切なものです。
あらためて考えてみれば当然のことですが、常日頃空気や水のありがたさを認識してはいません。
夫婦愛もそれによく似ています。
互いに強い本当の愛を持ち、本当に愛する人どうしなのに、常日頃には愛していると言う意識がされなくなってくるのです。

しかし第三者から見ていますと、その夫婦は本当に愛する人どうしなのがどことなく分かります。
当人同士は意識していなくても、その本当の愛はにじみ出てきているからです。



本当に愛する人とは あとがき

本当に愛する人とは、本当に愛し合ったたことのある人にしか分からないと言うことが結論なのです。
愛すると言うことを絵にすることもできません。取り出してお見せすることもできません。

愛は心の中にあるからです。
心が愛を感じるのです。
私が愛を感じれば相手の人も私の愛を感じ取ってくれます。
同じように相手の人が私の事を愛していてくれるその心は私にもわかるのです。伝わって来るのです。
ですから本当に愛する人には、「愛しています」などと言わなくても伝わるのです。
もちろんたまには「愛しているよ」などと耳元で囁けば女性は喜んでくれますが。

文通から始まった恋愛は本当の愛になり、結婚の約束までしました。
「本当に愛する人」がいることは人生を楽しくしてくれます。
文通の彼女は私の人生を豊かなものにしてくれました。
しかし彼女は突然病気で亡くなられたため結婚の約束は果たすことが出来ませんでしたが今でも忘れることは出来ません。

愛することは恋愛だけではありません。
その後見合い結婚した妻に対する愛も同じです。
私が妻を愛すれば妻も私を愛してくれます。
私の愛を妻が感じ取り、妻の愛を私が感じ取るのです。
心と心はつながっているのでしょうか。本当に不思議です。
以心伝心と昔から言われることは本当だったのです。



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