恋と愛の違い

 
恋と愛は違いますが、その境界は図で見ていただく通り判然としません。恋の段階では自分のものにしたいと言う感情が強く意識されます。
愛と言うのは相手を守ろうとする意識が強くなります。
哲学や学問ではなく、私の人生経験として感じたことをお話ししましょう。

恋と愛の境界

先ずこの第一図をご覧ください。左が恋の段階で、右が愛の段階です。

第一図
恋と愛の境界

明らかに恋と愛は違いますが、どこで恋から愛に変わっているのかは分かりません。
つまり、恋と愛の境界は存在しないのです。

境界は無いのにこっち側は恋で、あっち側は愛なのです。どこからがこっち側でどこからがあっち側なのか判然としないのにあっちとこっちがあるのですから不思議です。
恋の中には愛の心も少し入っていますし、反対に愛の中にも恋の心が少しは入っているのです。
ですから恋と愛は明確には区別できないわけです。多さの違いだけなのです。
第二図にその様子を示します。

第二図
恋と愛の境界

縦線のある所では恋の心の割合が多く、愛の心の割合が小さいです。
恋から愛に変わっていくにつれて、この縦線の位置は右に移動し、愛の心の割合の方が多くなるのです。

恋と愛の違い

私がここで説明したいのは、この第二図の黄色で示した「恋の心」と、赤で示した「愛の心」の違いについてです。
普通に「恋」と「愛」と言われるのはその区別があいまいで、多くの場合第一図に示したように判然としていないからです。
恋の中にも「恋の心」と「愛の心」が入り混じっています。
この二つ、「恋の心」と「愛の心」について考えてみたいと思います。

哲学や学問ではなく、私自身が体験してきた思いについてお話ししてみたいと思います。
私は現在78歳になります。喜寿も通り越しました。
若い頃の話になります。

恋の心

小学校の頃にもちょっと好きな子が居たり、中学校では先生に見つかってしまい、親が呼び出しを受けて注意されたこともありましたが、これらはいわゆる淡い恋とでも言いましょうか、ここでお話しするようなことではありません。

大学受験のため一生懸命勉強していたころ、「蛍雪時代」という受験用の月刊誌がありました。大変情報量が多く、スマホもパソコンもない時代、大変重宝しました。
その蛍雪時代の片隅に、一服しましょうと言うわけで、文通希望の募集が載っていました。自分の住所氏名を書き、文通したいと言う人の応募を行っているわけです。
私にはとてもここに自分の氏名を発表して文通相手を募集するなどと言う勇気はありませんでいたが、勇気のある何人かは募集のために発表されていました。
ほとんどが男性でしたが、ほんの少しだけ女性の名前もありました。
私は、どうせ断られるだろうとは思いましたがダメモトで女性の所へ手紙を出してみました。

そうすると、驚いたことに私を文通の相手としても良いと言う返事が来たのです。
私は字がとても下手で、自分でも読めないくらいでしたから、とても驚きました。後で分かったことですが、字は下手だったけれども文章が整理され、分かりやすく要点をまとめてあったので選ばれたのだそうです。
20数名の申し込みがあったそうですが、その中から選ばれたのです。

最初のうちは手紙のやり取りで普通の文通でしたが、しばらくしましたら写真の交換をすることになりました。

写真交換が済んだら、実際に会ってみたくなったのです。
私も、その人も同じ気持ちでした。
遠方のため一泊2日を要しましたので、困りました。
私は良いのですが、その人は女性ですから一泊は困るわけです。
それでも二人の気持ちは強く、とうとう一泊2日の初デートをすることになりました。
私は自分で自分に誓いました。絶対に手は出さないと。

次の朝、膝枕(ひざまくら)をしてもいい? とたずねましたらOKでしたので彼女の膝に頭を乗せました。
すると、私の頬に一滴しずくが落ちてきたのです。
どうしたのと尋ねましたが回答はありませんでした。

夕方別れ際に、「またお会いしていただけます?」とだねられましてので、もちろんですと答えましたが、その問いの中に涙の回答があったような気がします。
私は彼女が本当にこれから付き合ってくれたらいいなと思いましたが、きっと彼女も同じような気持ちだったと思います。

恋心になって来たのです。
恋の心です。

恋の心と言うのは、好きだと言うだけではなく、その人を自分のものにしたいと言う気持ちが強いのです。
他の人に心を奪われることなく、私だけに心を寄せてもらいたいと言う気持ちです。
これが「恋の心」の特徴です。

wikipediaの「恋」の説明には、好きだと感じ、一緒に居たいと思う感情、としてあります。

一説には、「恋」と言う字は下に「心」と言う字が付けてある通り、下心(〜したい)を意味するのだと言われていますが、そういう性的希望が中心ではありません。 もっと人格を尊重する思いです。
世界の中にこの人しかいないのではないかと言うように意識することはありませんが、まるでそのよう思うくらいその人が好きになり、自分と付き合って欲しい、私のものになってもらいたいと言う気持ちです。

「恋の心」と言うのは、相手の人格を尊重しつつ好きになり、自分のものになってほしいと言う思いです。

愛の心

文通の彼女とは手紙のやり取りはもちろん続きましたが、時々会うことも度重なりました。
そうしていますと、二人の気持ちはどちらから何を言うのでもないのに一緒になりたいと言う気持ちになってきました。
愛していますとか、愛していますわ、などとは言いませんが互いの気持ちは十分わかるのです。心が心に伝わってきます。
結婚の約束もしました。
彼女の親は了承してくださいましたが、私の親は許してくれませんでした。
時間をかけて説得することにしましたが、彼女はついに待ちきれず、家出してきたこともあります。
精神病院に入ってしまったこともあります。
愛しあいながら結婚が出来ず待つのは本当に辛いことです。

愛は心の中にあるものであり、取り出して見せることもできませんし、言葉で説明することもできないのです。
愛とは何かを、古代ギリシャから宗教に至るまで色々言われていますが哲学のようになってしまい、私には理解できません。

しかし私は愛を十分に感じましたし、愛の心を持ちました。
言葉では説明できないこの心の中にある感情をお話ししようと言うのですから、本来難しい事なのですが、私の感じた「愛の心」を私なりにお話しします。

愛は恋とは違い、例えばペットが可愛くてたまらないとか、親が子供を可愛がっているような心が愛です。
しかし、ペットや子供に対してよりも、彼女に対して抱くその愛の心はとても強いものです。
一口で言えば、本当に好きだと言うだけでなく、これほど大切な人を何としてでも守り切ろうとする思いとでも言えましょうか。
自分のものにしたいと言う気持ちよりも、更に深く思うようになって相手をいたわる気持ちなって来ているのです。

本当に愛しているのなら、愛しているよとか、愛していますわなどの言葉はいりません。
心が相手の心に自然に伝わるのです。
夫婦だってそうです。
毎日、「愛してるよ」などと言っているのはおかしな夫婦です。言わなければ伝わらないのでは本当に愛しあっているとは言えません。

しかし、彼女には本当に申し訳なく思っているのです。
なぜなら彼女は結婚寸前に突然死されてしまったからです。
私のショックも大変なものでした。
彼女の親は、悲しみのあまり私に当たられましたが、その気持ちもわかります。
愛していたからこそ守ってやりたかったのに、守ってやれなかったこの悔しさはどなたにもご理解いただけないのではないかと思います。
説明のしようがないのです。
私の心が悔しい思いをしているのですが、それを言葉で表現できないからです。私にしか分からないでしょう。

もう一度申し上げますが、「愛の心」とは言葉では伝えられないものなのです。愛した時に自分の心が感じるものだからです。
無理やり言葉で表現するならば、「ペットが可愛いとか親子の愛情と似ているところがありますが、それよりもさらに強く、一緒になって何としても守りとおさねばならないほど好きになっているときの心」とでも言えるでしょうか。

愛とは何かということについてwikipediaの「愛」も読んでみられると良いかもしれません。

「恋と愛の違い」まとめ

恋の心も愛の心も心の持つ感情であり、自分で体験する以外正しく認識することは出来ません。
しかし私の経験上、あえて言葉で表現するならば、

恋の心・・自分のものにしたいと言う気持ちを持って好きになっているその心

愛の心・・何としても守りとおそうとするほど好きになっているその心

このような違いがあるのではないかと思います。



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