無意識と潜在意識
・・本当に愛する人

 
無意識とは当然意識していない状態だろうと思うのですが、意識と言う領域と無意識と言う領域があるのです。
夫婦愛は本当に愛する人なのに普段は意識されません。
仏教では潜在意識の上に意識があるとされています。

無意識

無意識を語るには、まず意識とは何かを言わなくてはなりません。その意識がないことを無意識と言うのですから。
ところが、よく掘り下げていきますと、意識は無意識によってつかさどられていると言われ、意識がある状態でも無意識はその下にあると言われるのです。

何のことだかく分かりませんね。
詳しくは「wikipediakの無意識」をご覧ください。(クリックすればつながります)

私なりに解釈し、なるべく分かりやすく説明してみます。

無意識と言う名称

以前、「無意識」というのは「意識が無くなっている状態」とされていましたが、「意識」とは別に「無意識」という領域があり、氷山に例えれば、水面より上に出ている部分が「意識」であり、水面の少し下の部分が「前意識」です。
その前意識より下の、氷山の一番下までの部分が無意識の部分です。
つまり、無意識の上に前意識が乗っかっており、その前意識の上に意識が乗っかっているわけです。
見えているのは水面上の意識部分だけです。

水面からわずか下の前意識は、自我とほぼ同じ場所になります。
無意識はもっと深い所にあるのです。

意識の存在

「無意識」を理解するには「意識」を理解しなくてはなりません。
しかし意識は何かを定義するのはなかなか難しいのです。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と言う言葉がありますが、これは、「意識」=「自我」という考え方です。自分が自分を意識している時に分かるものだと言うのです。

しかし近代になり、意識を客観的に定義することは難しく、心理学においても、意識とは科学的に定義することは出来ないと言われることもあります。
現在でも心の概念と同様、意識の概念も主観的に把握されるものに過ぎず、その存在を客観的に把握するのが難しいものであると考える心理学派もあるのです。

しかし客観的に定義できないからと言っても、「意識を意識する者にとっては、意識の存在は明らかである」との観点から、心の概念と同じように意識の概念も存在しているとする心理学も多いです。
一方では、意識もまた存在しないと考える学派もあり、確定していないのが現在の姿です。

要するに、意識とは何かを定義することは出来ず、その存在は認められることが多いのですが、中には意識というものは元々存在しないと考える人もあるのです。

意識と記憶

目の前にあるものは形や音、あるいは臭いなど感覚的に意識することが出来ますが、今ここに無くても昔の記憶を呼び戻して、ああそうだったと、意識することもできます。
しかしなかなか思い出せず、あの人の名前はなんだったかな、などと苦労することもあります。

逆に、身体が覚えるとよく言いますが、楽器の演奏などどこをどう押せばよいのかいちいち考えなくても反射的に演奏できたり、自転車の乗り方だって身体が覚えています。

このような記憶は滑らかに出てくる場合もあれば、思い出すのに苦労することもありますが、それらの記憶はどこにあったのでしょうか。
もちろん大脳の中にあったのでしょうが、どの領域にあったかと言いますと、氷山の例で示したところの、意識の領域と、無意識の領域の間、「前意識」の領域にあったとされています。

無意識の存在

無意識には二つの意味があります。

@一般的にとらえられている「無意識」は、「意識がない状態」の事です。大脳の働きがほとんど無くなっている状態と言うことです。
しかし大脳の働きがほとんどないと言っても、完全に働かなくなれば死ですから、生きている以上心臓を動かしたり呼吸したりの指令は出しています。このため「ほとんど無くなっている」といってもどこまでなのかを客観的に定義づけることは出来ません。 さらに、感覚的には情報が入って来ていても、気づかない場合もあります。
例えば、ながら勉強では、勉強に夢中になれば、音楽は耳には入っていても意識はされません。そういう無意識もあるのです。

Aもう一つは、「心の中の意識でない、或る領域」を「無意識の領域」と言います。つまり、心の中には「意識」の領域と「無意識」の領域があるのです。
氷山で言えば、水面に出ている部分が意識で、水面下にある部分が無意識です。その氷山全体を心と言います。
もう一段階掘り下げますと、水面の下ぎりぎりの領域は、「前意識」と言う領域に分類されています。

無意識の存在

意識として出てくるものは記憶だけではありません。
無意識の領域から出てくる膨大な記憶はどのように蓄えられているのかも大きな問題です。

さらに人間には学習や経験によって得た記憶や知識のほかに、先天的に備えていたと思われる能力もあります。
生まれたての赤ちゃんは母乳を吸い、飲み込みます、その吸い方や飲み込み方は教えなくても赤ちゃんは知っています。
子供が成長する時、色々の言葉を覚えますが、それまで聞いたことのない文章、つまり、記憶にはない文章を話すことが出来ます。

これらの能力はどこに蓄えられているのかと言いますと、意識の領域ではなく、無意識の領域から出てくるのだと考えられます。

このように先天的な力などは心の中にあるのは間違いないでしょうが、意識の中にあるわけではありません。赤ちゃんがどうやって乳を吸えばよいのか考えているわけはありませんから。
すると、心の中には意識以外の所があると考えざるを得ないのです。
ですから、この領域を「意識でない領域」、すなわち「無意識」というところが存在すると考えざるを得ないと言うわけです。
理論ではなく私の経験としての話ですが、本当に愛する人は無意識の中にあることを知りました。
恋愛の真っ最中には、本当に愛することは常に意識に登りますが、恋愛であれ、見合いであれ、夫婦を長く続けていますと、夫婦愛になってきます。
この夫婦愛は普段愛していることが認識されません。本当に愛する人なのに意識としては認識されなくなって来るのです。
夫婦どちらかが怪我や病気になったり、亡くなったりしたときには、非常に強く認識されるようになります。
夫婦愛は本当に愛する人なのに、まるで空気か水のように普段は意識されません。無意識の中に入っているのではないかと私には思われます。

意識以外の領域、無意識の領域に記憶や知識が存在し、その内容が意識に対して作用していると言うことは、科学的にも実証されているのです。

この無意識に関して、フロイトやユングと言う人が、深層心理学と無意識について説明していますが、ここでは省略します。 興味のある方は冒頭に紹介したwikipediaをご覧ください。

広義の無意識

意識でない領域をすべて無意識と言うのであれば、催眠術にかけられたり、薬物摂取で生じている通常の意識ではない意識も無意識と言うのでしょうか。

「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、そのような領域について、客観的な説明を行うのは困難だとされています。
無意識については未解明な領域である可能性が高く、心理学の分野や脳科学の分野や他の分野等で研究されているのが現状なのです。

潜在意識

潜在意識と無意識

通常はほとんど同じ内容として使われる言葉です。
「無意識のうちに潜在意識が働いて、思わず何々と言ってしまった」などと使われても不思議は感じません。
webで見ていましても、潜在意識(無意識)として同義語扱いされていることが多いです。

しかしwikipediaの唯識において述べられているのは少しだけ異なっています。
「潜在意識」は「無意識の中の一部」を指し示しているのです。

前述の氷山のたとえでで言えば、水面のすぐ下の部分、「前意識」の領域を示しています。
前意識は無意識の中ですから大きくは違いませんが、このような差があります。

唯識と言うのは仏教の考え方です。
この中では八種類の識がありますが、大きく分けると二つに分けられます。

@意識
視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚と第六意識を合わせて「意識」とします。
氷山で言えば水面より上の部分です。

A無意識
無意識は水面下になりますが、2つに分けられます。

A 無意識の中の上層部分
上記の意識を支えている部分です。氷山で言えば水面の直下です。
この水面のすぐ下に末那識(まなしき)と呼ばれる「潜在意識」があります。無意識の中です。
これは、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれます。熟睡中は意識の作用は停止しますが、その間も末那識は活動し、自己に執着するといわれます。

B 無意識の中の下層部分
さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が「意識」や「末那識」(潜在意識)を生み出します。
阿頼耶識こそが無意識の根幹なのです。
この無意識の根本となる阿頼耶識は、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられているのです。

唯識

この仏教の考え方は前述の意識や無意識と非常によく似ていますが、大きくとらえ方が違っているところがあります。
「唯識」と言う考え方です。

この世に存在するものは実体のない存在であり、生滅を繰り返して最終的には消えてしまうとしているのです。
「色即是空」と言われます。
色(シキ)とはこの世のすべての物を意味し、空(クウ)とは実体はないと言うことを意味しています。
「色すなわちこれ空」 です。

人の心が認識するからこそ、そこにあるように思えるけれども、実際には永久に変化しないでいられるものではなく、すべて変化するものなのだと言っています。

私は仏教徒ではありませんし、学者でもありません。
しかしこの唯識に共感できるところもあります。

荒城の月の歌詞は見事にこのことを語りつくしていると思います。
昔は栄え、権力も誇っていた城も、今は荒れ果て、垣に残るはただカズラと言っています。
この荒城の月を思うに、世の中はその通りだと思うのです。
ホームページとして出していますので興味のある方はご覧ください。



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